十勝大豆トヨコマチ
ついにシンガポール初上陸、北海道は十勝産トヨコマチ!
ショ糖含有量が高いため、煮豆(水煮やヒジキなど)に最適とのことですが、甘さはリュウホウと同等、ただし、はらりとほどける柔らかさと、豆豆しい風味はお子様も大喜びでしょう。
リュウホウより色白で、パァ~ンとして、しかも水に戻すとやや大きい。
ひじきなどの煮ものに使おうものなら、主役より目立つ脇役必至!無駄に砂糖を入れずに、ぜひ豆そのものの甘さを舌の上で存分に感じていただければ。
海外大豆は、形が残らない加工用向き。豆そのものを食べる場合は、稲造セレクトの国産大豆がおすすめです。
北海道大豆は元々卸値が高く、しかも北海道→秋田の輸送費がバカにならないため、値段もちょい高め。価格は300g6ドルになります。
はるばる帯広から渡星したトヨコマチ。漢字では「豊小町」と書く。お母さんは「樺太1号」、お父さんは「トヨスズ」。
さて。
樺太とは、今のサハリン。
日露戦争後、日本はサハリン南半分を領有、北海道「樺太庁」を設置した。そこに「豊原」という人口3.7万人の大きな町を作り、そこには農業試験場まであった。
樺太1号と、豊鈴(トヨスズ)の父である豊原も、戦前にそこで改良された品種。
樺太1号は耐寒性に大変優れた品種で、これを北海道の帯広農試に運んだのが、1944年のこと。
日ソ中立条約が破棄されるちょい前。日本全土が焼夷弾で燃えはじめ、食糧不足も本格化していた頃だ。
今もそうだが、北海道では畑作・麦・大豆の栽培に力を入れていた。食糧増産は喫緊の課題であり、極寒に耐え抜く樺太1号には大きな期待がかけられていただろう。
父の豊鈴が帯広で生まれたのは1966年だが、その父(豊小町の祖父)のその名も「豊原」が帯広に来たのは、1946年のこと。
ソ連の北海道侵攻を遅らせるため、「残って玉砕せよ」と樺太民が軍部から強要されたのは、実はポツダム宣言受諾後だ。
樺太戦の終了は1945年8月25日。そのカオス極まりない戦後の豊原農試から、祖父は一体どういう経緯で帯広に持ち帰られたのだろう???
命からがら樺太から脱出するとき、「豊原」を豊原に残してきたことは、文字通り断腸の思いだったんだろうなぁ...
と、農試職員・嶋山さんの命を懸けた涙ぐましい情熱を想像すると、彼らと樺太1号&豊鈴夫婦たちとの愛の物語で、本を1冊書けてしまうのではないか。
あの当時の日本には、樺太の気候にさえ耐性を持つ大豆を、命をかけてソ連から取り戻す価値があったのだろう。
この樺太帰りの夫婦にできたのが、1975年生まれの豊小町。作付けは1987年から。
「豊」は両親の故郷である豊原から。「小町」は秋田であきたこまちの栽培が本格化した頃だったから、二匹目のどじょうでも狙ったのだろう。
小町は平安時代の「美人」の称号だから、豊原美人という意味。
彼女は樺太血統を見事に受け継いだ。
寒性と寄生虫(大豆は根に虫がつく)耐性に優れ、色白で大きくて見栄えがし、さらにたおやかな食感をもつ、その名の由来を示す美しい大豆に育った。
そして戦後76年、海を越えて令和の星州に至る。
さて、「ファイザー打った?」が合言葉のmRNAワクチン。
その開発者は、共産主義が崩壊するハンガリーから、「ぬいぐるみの中にお金を隠して命からがら...」と米→独と移住した、独ビオンテックのカトリン・カリコ博士だ。
よって、本来はモデルナか「ビオンテックか?」になるはずだが、大規模治験と生産販売を担う米ファイザーが手柄を独占。
ともあれ、未来は過去の積み重ねだが、何がどう転ぶか全くわからない。
共産主義との血みどろの戦争があった。嶋山さんが樺太から、カリコ博士がハンガリーから脱出していなかったら、帯広農試の豊小町も、ビオンテックのワクチンも、生まれていなかった。